皆足媛は何処の誰?

別格本山、金陵山西大寺(西大寺観音院)の建立については、二説あります。
寺伝の第一説によりますと、奈良朝の昔、すなわち孝謙天皇の時代、
天平勝宝三年周防の国(いまの山口県玖珂の庄)の藤原皆足媛の開基によるとされています。

皆足媛の父は、日頃より深く観音を信仰しておりましたので、娘にもこれを勧め、
したがって娘に皆足という名前をつけました。
「皆足」とは、仏典のいわゆる、「皆会満足」の意味ととれるようです。
他説としては、法華経の中に「皆令満足」という語があり、これによって命名されたともいわれます。

皆足媛と観音像

さて、皆足媛の前に出現した年少の仏師は、媛の願いをききとどけて、観音像を造ることになりました。
しかし仏師は、観音像が出来上がるまでは、造っているところをけっして覗かないようにと言って
一室にこもり、戸を締め切ってしまいました。
皆足媛は、朝夕の食べ物を戸の隙間から差し入れるだけにしておりました。

皆足媛の舘で仏像を造る年少の仏師

仏師が部屋にこもって数日間が過ぎたころのことです。
室内より、なにやら話し声がするのを耳にした皆足媛はおおいに訝り、思わず室内を覗いてしまいました。
すると、観音像はすでに出来上がっているようでした。
そして、年少の仏師は従容として、その観音像と話をしておりました。

仏師は、皆足媛が戸外から窺っているのに気がつくと、 媛が約束を破ったことに激しく怒り、立ち去ろうとします。
皆足媛は周章狼狽し、幾度となくお詫びをしましたが、仏師の怒りは収まるようではありませんでした。

仏像を舟に乗せ海路長谷に向かう

思い余って、仏師にそのお住まいを、是非にと尋ねると、仏師はおもむろに、
「今、自分は、大和長谷に仮住まいをしている」と言い置いて、立ち去ってしまいました。
仏師が去った後、部屋に入ってみると、驚いたことには、 室内の空気は、霊光馥郁としており、面貌美妙なる観音像が端然と、そのお姿をあらわしておりました。

皆足媛は、「さてはあの仏師は、長谷千手観音の化身に相違ない」と信じ、それからは、朝夕のお勤めにますます励むようになりましたが、 この素像の観音を、京にお運びして彩色をほどこし、 開眼供養をしなければ、と思い立ち、観音像を船に乗せ、長門を出港して、瀬戸内を海路備前の国にさしかかりました。

皆足媛と西大寺観音院

おりしも、皆足媛の夫は、備前の国府(現在の岡山市)に単身赴任しておりました。
媛は上京の途中、夫を訪ねることとし、船を金岡(西大寺の南方)に泊め、数日間夫のもとに滞在をいたしました。

金岡沖で動かない皆足媛の舟

夫への訪問を終えて、金岡に戻り、いざ出発をしようとして 船のとも綱を解きましたが、船は膠着して全く動かず、里人を頼んで曳こうとしましたが、それでも動きませんでした。
皆足媛は船がどうしても動かないので嘆きましたが、「これはきっと、観音様がこの地から離れたくないに違いない」と考え、 松中島に草堂を建て、観音像を安置いたしました。
それから媛は大和へ赴き、長谷寺に参詣して、帰路この草堂に立ち寄って、仏具を備え、香華を供してから、郷里の周防に戻りました。

その後二十六年を経て宝亀八年になりました。
紀伊の人で安隆上人というかたの夢枕に、長谷の観音様が立たれて、 「松中島に草堂があるので、それを改造するように」と言われました。

松中島に安置される観音像

安隆上人は周防に赴き、皆足媛を訪ねて資材を募り、帰路につきましたが、 その途中、突如として龍神が海上に出現して、上人に犀角を授け、「この犀角を埋めてその上に搭堂を建て、 観音像を安置すれば法灯末永く輝くであろう」といわれました。
そこで上人は備前に帰り、龍神の言われた地に犀角を埋め、お寺を建立いたしました。
従って、はじめ西大寺は、犀戴寺と称されていましたが、そののち、後鳥羽上皇の宸筆により、西大寺と改称されたといわれます。
こうして西大寺の町は、犀戴寺というお寺を中心として発展してきたわけであり、 皆足媛がいなければ犀戴寺もなく、皆足媛こそが、西大寺の根本であるといえるのではないでしょうか。

いまだに解けない謎

これまでお話してきた皆足媛や観音院にまつわることで、まだ明らかになっていないことや不思議な事が伝承されています。
ここではそれらについて、まとめてみたいと思います。

皆足媛の年齢

皆足媛の生誕年は不詳です。
皆足媛の結婚年齢は、当時の習慣からすれば十五歳前後ではないかと推定できます。
皆足媛が松中島に観音像を安置したのが天平勝宝三年(751)であり、 安隆上人が長谷観音のお告げを受けたのは、それより二十六年後の宝亀八年(777)。
安隆上人が犀戴寺を建立した時のが翌年の宝亀九年(778)で、 皆足媛の没年が延暦十五年(796)となっていることから、 皆足媛の推定没年齢は(796-751+15=60)六十歳くらいであろうと推測できます。
平安遷都が延暦十三年(794)であることから、京の都ができてまもなく、亡くなったのではないでしょうか。
還暦ぐらいまで生きたということは、当時としては長生きです。

参考   天平勝宝 (749-756)宝亀 (770-780)延暦 (782-805)

俵石

松中島の草堂に観音像を安置した皆足媛は、長谷観音に参詣するため、海路浪速まで到着したけれども、 そこから大和長谷寺までの道のりはかよわい女の足では、難儀この上なきとの事でかなわず。
しかし、せっかくここまで来て参詣できぬは残念だと云って、浪速の水際から御供えに持参した米俵をどうぞお受け下さいと掌を合わせて拝むと、 不思議なことに米俵は空中を飛び、長谷の方向に消え去ってしまった。 いま長谷寺に行くと、その形が俵のような石が転がっているそうです。

<浪速に水際より遠く長谷観音を拝む皆足媛-俵が飛んでいくのが見える>

西大寺建立第二説

「 備陽國誌 」 によると、西大寺は備前四十八箇寺のひとつにして、報恩大師の開基に係るとあります。
報恩大師は、備前津高郡の出身で、その事蹟は各所に散見でき、大師の墓は、御津郡金山寺 と、邑久郡弘法寺にあるので、歴史上実在の人物と信じられます。
一方安隆上人の事蹟は、西大寺古縁起の外、見当たらず、上人が西大寺を建立した宝亀九年と、 大師が寺を創立した時代はほとんど同一年代のため、沼田博士は、二人は同一人物であるかもしれないと論じています。

御本尊異聞

  1. 正安元年(1299)正月22日、落雷により本堂はじめ多数の伽藍が炎上した。
    その時御本尊は、突如として大身を現わし山のごとくなり、そのため外に出すことかなわず、 やむなく合掌の御手だけ打ち落として持ち出した。
    その後焼け跡から、完全なお首を発見し、同年8月11日、そのお首と合掌の御手とをもって御本尊を修造した。
  2. 文明十五年(1483)12月12日、但馬の兵、山名新兵衛という不信心者が、お堂の軒下を壊して薪にし、それで兵士の飯などを炊いたりした。
    ところがそれを食したものは顔面たちまち土色に変色し、卒倒してしまった。
    皆仏罰のよるところと畏れおののき、以後信仰を深くするようになったという。
  3. 延徳二年(1490)に大洪水が起こり、濁水が境内に氾濫した。
    その時たまたま本堂の床下に、乳飲み子を抱えた母犬がいたが、救い出すことが出来なかった。
    洪水が引いてみると、不思議なことに母子とも無事であったので、その当時の人々は、これは犀角の霊力によるものに違いないと、感歎したそうである。
  4. 天文元年(1532)、山守の乱民が寺内に侵入して伽藍に放火した。
    にわかの事で、御本尊を運び出すことが出来なかったが、御本尊は自ら向うの洲に飛び移られ、 数日後吉井川のほとりで発見されたが、無傷であったため、人々は観音の威徳をおおいにたたえたという。
  5. もと御野郡の住人太田太郎兵衛なるもの邑久郡(現在の岡山県瀬戸内市)に転住し、久しく御本尊を信仰し、日参して 誓願をしていたが、 ある時にわかに洪水となり、濁流堤に溢れ、人馬の往来も絶えてしまった。
    太郎兵衛は困惑して向こう岸にたたずんでいたところ、一人の僧侶が小舟を漕ぎ寄せ、 彼を乗せて観音堂の前の岸に無事送り届けるやいなや、たちまちにして舟も人も共にあとかたもなく消え失せてしまった。
    太郎兵衛は、これはひとえに観世音菩薩のお助けによるものと感じ入りますます信心を篤くしたとのことである。

皆足姫のゆかりの場所

皆足姫の足跡をたどる上でポイントになる場所です。

1.観音院 本堂

金陵山西大寺(観音院)の本堂には、御本尊として、皆足媛が長谷の観音様の化身の仏師に造っていただいたとされる千手観音像が安置されています。 ご開帳は、三十三年に一度行われます。

2.観音院 牛玉所殿( ごおうしょでん )

牛玉所殿(当地ではゴオショオサマと訛る)には、牛玉所大権現と金毘羅大権現が御祭されています。そして、皆足媛の御位牌も安置されています。 金毘羅大権現の御本体は、明治初頭に吹き荒れた廃仏棄釈の嵐の中、縁あって、讃岐から西大寺に移されました。 それを記念して造られた金牛神輿が展示されています。なお、皆足媛の没年は、延暦十五年四月十八日と、お位牌に刻まれています。

3.山口五社宮(皆足神社)

山口五社宮は、観音院の北西50Mほどにあります。 素戔鳴、大名持、小彦、稲荷、大國主の五社があり、中央の御社には、皆足媛の御霊が合祀されています。 山口と名前がついているのは、皆足媛の出身地である、山口県から移ってきた山口姓の一族が、祖先を祀るために造ったからです。
また、この神社は、当地では、権現地と呼ばれます。当初は山口権現と呼ばれていましたが、 皆足媛の死後、京より命(みこと)の位が授けられ、のちに皆足媛を御祭するため、この権現地を選び、ここにあった権現様を観音院に移し、替わって、皆足媛の御霊をお迎えしたと云われています。
故に皆足媛の御神体とされる宝剣も安置されています。

4.観音堂

皆足媛が観音像を安置した松中島の草堂とも云われます。場所は、金岡の庄、川北にあります。

5.周防の国 玖珂の庄

皆足媛の生誕の地とされています。現在の山口県玖珂郡周東町で、天平十六年(744)に玖珂の大領秦皆足朝臣という男性がニ井寺山極楽寺の開基に関わっているということです。

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